オペラ『ミカド』について |
| オペラ・ミカド実行委員 中 央 大 学 教 授 |
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| 新 井 潤 美 | ||
| 『ミカド』は劇作家W.S.ギルバートと作曲家アーサー・サリヴァンが作った14のオペラのうち、初演当時からもっとも人気のあった作品である。日本ではあまり知られてはいないが、通称「ギルバート&サリヴァン」で知られるこのコンビの作品は本国のイギリスのみならず、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリアなどの英語圏の国では現在でもつねに広く読まれ、歌われ、引用され、上演されている。中学校、高等学校の学芸会の「定番」のだしものであり、アマチュア歌劇団のレパートリーには欠かせないものであり、宴会の「芸」として披露されるコミック・ソングもほとんどはギルバート&サリヴァンのオペラのものである。 なかでも人気のある『ミカド』は、題名からもわかるように、舞台は「日本」である。なぜ日本なのか?新しいオペラの筋書きが思い浮かばず、ギルバートが書斎で悶々としていると、壁に飾ってあった日本刀がいきなり落ちてきてギルバートを驚かせた。そしてそのときに思いついたのが、オペラの舞台を日本に設定することだったと言われているが、これは後に作り上げられた伝説だろうという見方が今では一般的である。それよりも当時ロンドンに起こっていたちょっとした「日本ブーム」がギルバートにヒントを与えたのだろう。1862年にロンドンで開かれた万国博覧会では日本からの展示品が注目を集め、一般のミドル・クラスの家庭にも「日本の」陶器や置物、扇などの装飾品が姿を現わすようになっていた。ロンドンの有名百貨店リバティの創立者アーサー・リバティは、万博の日本展示にインスピレーションを得て、「日本風」の生地や小物を売り出して成功を収めた。 さらに日本ブームに拍車をかけたのは1885年の1月にロンドンのナイツブリッジに設けられた「日本村」であった。これはタンナケル・ブヒクロサンという日本在住のオランダ人が企画したもので、日本から職人、茶屋の娘、芸人など男女合わせて百人あまりを集めてロンドンにつれてきた。彼らは夜は近くの宿舎に寝泊りし、日中はナイツブリッジの会場でやきものづくり、象牙細工、大工仕事などの技術を披露した。簡単な茶屋や芝居小屋もあり、その様子は『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』などの雑誌にも挿絵入りで大きく取り上げられ、人気を集めた。新聞には毎朝「日本村」の広告が掲載され、連日見物人が詰め掛けていた。 1885年3月14日にロンドンのサヴォイ劇場で幕を開けた『ミカド』は大成功を収め、672日という、当時としては記録的なロングランを達成した。批評家たちは感嘆詞を駆使してこの作品を褒め称え、『ミカド』の登場人物をイメージした小物や装飾品が売り出され、『ミカド』ブームが巻き起こった。 『ミカド』の初日のプログラムには「上演にあたって、ナイツブリッジの日本村の責任者および住民の貴重なご助力を受けたことに深く感謝する」という謝辞が印刷されていた。完璧主義者のギルバートは『ミカド』の舞台稽古が始まると、「日本村」から若い女性を数人呼び、歩き方、扇子の使い方、袖で口元を覆って笑う仕草などの手本を示させたのである。衣装にも細心の注意を払い、専門家の意見を聞いてなるべく「本物らしい」ものに仕上げた(日本からとりよせた男性用の衣装が小さすぎて誰も着られなかったとか、日本の女性は下着をつけないと聞いて女性歌手全員が騒然となったなど、衣装に関してはさまざまなエピソードが伝えられている)。 このように上演に際してはリアリズムに固執したギルバートであったが、彼が書いた作品自体は「日本的」とはほど遠いことは最初の数行を読んだだけでも明らかである。日本に関するギルバートの知識は、新聞や雑誌で報道される日本の記事や日本紹介のエッセーから得られる種類のものでしかなかった。作品の中で使われる日本語といえば第二幕のミカド登場の際の合唱「ミヤサマ」と、第一幕のフィナーレで歌われる「オニ!ビックリッシャクリト!オヤ!オヤ!」(これを日本語と呼べるのならば)のみである、Yum-yum, Ko-koなどの二音節からなる登場人物の名前も、日本的というよりは当時のイギリス人の持っていた「中国的」なイメージに近い。 何よりももちろん、荒唐無稽な筋書きはともかく、この喜劇の重要な部分を示す、ジョークや風刺はすべて当時のヴィクトリア朝社会に向けられるものである。第一幕のココの「死刑候補者リスト」の歌や第二幕のミカドのソロ「罪に見合う罰を」は、現在でも上演されると必ずアンコールを所望される人気ナンバーであるが、そこで歌われている「犯罪者」はいずれも、ヴィクトリア朝のミドル・クラスの社会においてマナーや常識や協調性に欠けるとみなされている人々である。「いる、いる、そういう人」と観客をうなずかせるような人物を面白おかしく描写し、それをまったく異なった時代や背景に映すことによって笑いをとるのは喜劇の常套手段だ。自分たちの暮らす時代、文化、社会の中のちょっとした矛盾や不満に目をつけ、それを笑いの種にする。特に鋭い風刺ではなく、社会を覆そうとする破壊的な攻撃でもない。 この喜劇効果をさらに高めているのがサリヴァンの音楽であり、序曲の初めに聞かれる「ミヤサマ」の旋律と、第二幕の「ミヤサマ」の歌以外には「日本的」どこらか「東洋趣味」と言われるような旋律はまったく使われていない。それどころか、第一幕のナンキ・プーの自己紹介の歌や、第二幕の、ココのカティシャへの求愛の歌「ティット・ウィロー」などには、これでもかというほどイギリス的な民謡を思わせるメロディが用いられているのである。 日本では『ミカド』は1887年に、『学校を出たばかりの三人娘』と題を変えて横浜居留地の劇場で上演されている。さらに戦後には、GHQの専用劇場として使われたアーニー・パイル劇場(もと東京宝塚劇場)で1964年に上演されたが、ここは日本人は観客として入ることができない場所であった。翌年に長門美保歌劇団が東京劇場において、日本で初めての公演を実現したが、その後『ミカド』のみならず、あれだけ英米で人気のある「ギルバート&サリヴァン」の作品はほとんど日本では上演されていなかった。 だからこそ2001年3月に、秩父市制50周年記念行事の一環として『ミカド』が日本語で上演されたことは「ギルバート&サリヴァン」作品の上演史の中で、大きな意味を持つ。毎年イギリスで開かれるインターナショナル・ギルバート&サリヴァン・フェスティヴァルの実行委員会は、この公演に興味を示し、「なんとか関係者にコンタクトをとれないものか」と思っていたという。そして今年の夏、めでたく日本版『ミカド』がフェスティヴァルにおいて上演されることになった。「イギリスで日本人が日本語で『ミカド』をする」ということで、フェスティヴァルのホームページで大々的に宣伝され、向こうではかなりの盛り上がりのようだ。これを機に、日本でも『ミカド』、そしてギルバート&サリヴァンのばかばかしくも楽しい世界を知る人が増えてくれればと思う。 |